山本耕史ふたたび

今年は大河を追いかけている。楽しい。

中学2年の時にも大河にハマった。20年近く前も土方歳三役で山本耕史が出ていたのに、今年も三浦義村役で山本耕史が出ている。どういうこっちゃ。

子供のころなんとなくハマったのと違って、大人になって見る大河は面白い。脚本は同じ三谷幸喜だが、味わいが全然違う。

 

今年の大河の舞台は、だいたい840年くらい前のこと。
この時代を知る史料で有名なのは「吾妻鏡」という受験日本史頻出の歴史書。しかしこれは、その時代の主役だった北条氏が書いているので、北条氏の正当性を強調しがちで客観性に欠ける。まあ歴史なんて、勝者が書き残すものだから、だいたいにおいて言えることだが。

昔の人は筆まめなので、毎日詳細に日記をつけている人がいたり、手紙を残していたりするので、異なる側面から当時を知ることもできなくはない。この時代の他の歴史書でいえば天台座主慈円が書いた「愚管抄」とか、藤原定家の日記である「明月記」とか。

 

しかしとにかく吾妻鏡が、大河ドラマのモチーフにもってこいなのである。だって頼朝や北条氏の活躍をドラマチックに綴ってあるわけだから。

ところが、鎌倉幕府オフィシャルブックであり、北条氏の正当性をアピールしたいが為の吾妻鏡なのに、頼朝の死に一切触れていない。頼朝の死の3年前から記述がなくなり、死んだ13年後にしれっと「この川で昔頼朝が死んだから縁起が悪い」とだけ書かれている。超絶不自然。

 

最高。ここが私のグッとくるポイント。うっかり書き忘れたわけがない。都合が悪いから書いていないのである。

つまり、私たちが認識している日本史なんて、ぜーんぜん事実かどうか怪しいということ。めっちゃいい加減。北条氏にとっての真実は書いてあるのだが、それが事実かどうかは分からない。タイムマシンでも発明されない限り、客観的な事実は分からない。

筆者の認知機能を通過しないと、歴史は残せないのだ。

そして人間の認知機能はいい加減だ。どんなに公平公正に物事を見ようとしている人でも、絶対無理。だって人間の脳はそういう風に出来てない。認知機能はあらゆるバイアスの影響を受ける。ひいては、歴史もあらゆるバイアスがかかる。ご都合主義万歳。だが、そこが良いのだ歴史。

 

 

みんながそれぞれの視点で物事をみて、それぞれに解釈している。立場が異なれば言い分も認識も異なる。
そういうことの連続で、いつの世も右往左往しながら人は生きている。数百年、数千年前からそういう営みが繰り返されている。諦めるほかない。

 

三谷幸喜は、そういうところを正直に描いている気がする。
しとどの窟に隠れて大庭景親軍をやり過ごした北条時政には「頼朝は棟梁の器に足らん」と見えたろうし、2万の軍勢に怯まず自分を追い返そうとした上総広常は「こいつは担ぐに足る」と見えた。同じ人物でも、状況次第で全く違う見られ方をする。あるあるです。

 

ところで、北条政子役が小池栄子というのは最高のキャスティングだ。
ガッキーの八重は、ちょっと微妙。
洋ちゃんは洋ちゃんにしか見えないから、これも微妙。

後白河院西田敏行というのは最高。
國村隼大庭景親も、佐藤浩一の上総広常もすごく良い。
でも、小栗旬小栗旬にしか見えない。北条義時では、ないのよね〜。