続・長崎道中

丸山町は、遊郭があった場所だ。
はるばる江戸両国に連れてこられたラクダは、オランダ人が丸山遊郭の遊女に貢いだ2頭だった。
さすがの遊女も、ラクダはどうしようもなかったのか、
香具師に転売され江戸に上り、人々を賑わすに至った。

 

遊郭といえば「吉原炎上」とか「さくらん」とか、大人のエンタメの題材にされがちだから、ビジュアル的なイメージを伴って知る人が多い。
成人式で振袖を遊女風に着崩す女の子がいるが、おばあちゃんとか悲しまないのかな。

江戸なら吉原、大阪の新町、京は島原が有名で、地方を含め全国にいくつもある。

吉原は「廓(くるわ)」という語感の通り、周囲を塀とお歯黒溝(おはぐろどぶ)に囲まれて、足抜け厳禁の閉鎖的なイメージが強い。
ちなみに江戸の古地図を見ると、素人でも簡単に吉原を探せる。
四角い堀に囲まれた場所で、地図で見ても周囲から明らかに浮いた異様な場所だ。

 

さて長崎丸山遊郭は、いくつかの点で特異だった。
まず全国で唯一、オランダ人と唐人を商売相手にしていた。
オランダ人のカピタンとかヘトルとかいう役職者は給料も高ければ副収入も多い。
下手な日本人を相手にするより、遊女屋は儲かる。
しかし言葉が通じないから、カピタンと遊女の間には通詞(通訳のこと)が入る。
それでも丸山遊女は現地妻のような地位を築き、ハーフの子供が生まれたこともあるらしい。

鎖国下では唐船も入ってきたのだが、当然この頃中国は唐の時代ではない。
明とか清の時代なのだが、「唐人屋敷」とか「唐物(からもの)」とか、中国大陸の人や文化を「唐」と呼ぶ言葉は今尚残る。
どうやら明人や清人が「唐人」と自称していた節もあるらしい。
さらに正確にいえば、唐人とは唐船に乗ってくる人々の総称であり、中には東南アジア系の人種も含まれていた。

唐人を相手にする遊女は、通訳抜きで商売をしていた。
これは丸山遊郭に限らないが、ハイクラスの遊女は教養があって頭も良い。
銀座の高級クラブのママってところだろうか。
中国語くらいはサクッとマスターしていたらしい。

 

高級遊女は、舶来品のプレゼントをたくさんもらった。
ラクダはレアだが、絹織物や砂糖など莫大な金額になることが珍しくなかった。

砂糖は特に、オランダ人にとって割りが良かった。
当時砂糖の国内生産は少なく、輸入品が信じられない値段で取引された。
海外の仕入れ値の10倍くらいで簡単に売れたらしい。
しかも大量の砂糖は船のバラストの役割も果たし、オランダ人には一石二鳥だった。

江戸時代ってちゃんとしてるなと関心するのだが、
遊女が個人的に貢がれた品々は、隅々まで役所に届ける決まりがあった。
幕府が抜け荷を厳しく取り締まっていたこともあり、どこそこの遊女が砂糖を何キロもらったとか、禿が鼈甲をいくつもらったとか、細かく記録が残っている。

もちろん遊女は砂糖を消費せず、役所が指定するルートで転売する。
この辺まで抜かりなくコントロールしているのが、すごい。

f:id:myroots:20210919152941j:plain

なんと、引田屋という遊女屋の建物が料亭として残っている。



そもそも遊郭とは政府公認の「公娼」制度だから、お上の方を向いて商売するのは全国共通なのだが、長崎丸山遊郭には特別な意味がある。

いくら多くの輸出入があっても、それらは長崎を素通りして江戸に上る。
これといった特産品の無い長崎では、地元に金を落とさせる仕組みが必要だったのだ。

上方から商売にやってきた商人に長崎で消費活動をさせるため、オランダ人に長崎で金を使わせるために機能していたのが遊郭だった。
丸山遊郭は、地方経済を担う重要な産業だった。

 

長崎に産業がなかったというか、地形的に無理なのだ。
平坦な田畑すら少なかったと思う。

旅をするとそういうところがよくわかる。